王朝時代の名残が残るフクギの老木
1611年頃、尚寧王が各間切りに番所を設置し、南風原間切番所もその時に設置されました。現在番所跡には道路に沿って7本のフクギの老木が残っており、町内では珍しい存在です。
昔から大きい!たくましいガジュマルたち
喜屋武にある中毛小には、4本のガジュマルが並び、互いの根が網目状にからみつき、悠然と大地にそびえたっています。高さは約5mから高い木では9mを超え、胸高周囲は最大3.7m~最小1.8m。樹皮は凹凸があり、コケ類が着生するなど古木の風格が漂っています。
表情がユニークな本部の石獅子
八重瀬に対するフーチゲーシ(邪気返し)の目的で造られたと伝えられています。
かつての本部と照屋の集落同士の関係を垣間見る
照屋の人々は本部の人々が故意に照屋に向けて石獅子を設置したと思い込み、それに対抗するべく2基の石獅子を造って本部に向けたといわれています。
那覇へ向けられた石獅子
この石獅子は、上間(那覇市)への邪気返し(フーチゲーシ)目的で造られたと言われています。
人家のようなつくりの墓室
摩文仁家は、第二尚氏、尚質王の第二子尚弘毅、大里朝亮を大宗とする家系で、その墓は南風原町の大名にあります。朝亮は尚貞王の時代に摂政を務め、その功績が認められ墓を拝領したとされています。
羽衣伝説の言い伝えが残る
琉球石灰岩でできた井戸で、羽衣伝説が言い伝えられ、琉球国由来記(1713年)と球陽外巻の遺老説伝(いろうせつでん)(1745年)に記されています。
「かすりロード」や工房をたずね琉球絣の魅力にふれる
琉球絣の歴史は、14~15世紀頃までさかのぼり、大交易時代の波に乗ってインドから東南アジア各地に広がった絣が、沖縄に入ってきました。
琉球絣の第一人者
大城廣四郎氏は、戦後琉球絣の復興に尽力した琉球絣の第一人者です。日本工芸展などで賞を受けるほか、1988年には労働大臣より現代の名工「卓越技能者」として表彰されました。
親子三代で琉球絣の反物を織る
90歳を越えてなお元気な現役の織り子さんの“おばぁ”を中心に、家族三代で琉球絣の反物を作っています。
琉球舞踊の衣裳からストール、ネクタイ、財布等の小物まで豊富に取り揃えています。
復活した技が見ごたえのある獅子舞
「ションカニグヮー」は技術的に難しく、1970年に復活された時には大喝采が起こりました。
戦争を乗り越え受け継がれる獅子舞
宮平の初代の獅子舞は首里王府から拝領したものであると伝えられていますが年代ははっきりせず、第二次世界大戦で行方不明となっていました。
200年続く伝統のある獅子舞
本部の獅子舞の由来は、尚顥王時代の「本部赤嶺の伝説」に遡ることができます。
「遊びシーサー」として親しまれている獅子舞
神里では型が忘れられており、決まった演舞がないのですが、子どもたちに噛みついて 遊んだり、子どもたちがじかに触れ、中に入ってみたりと「遊びシーサー」として親しまれています。
復活した綱曳き
2010年、20数年ぶりに復活した照屋の綱曳き。照屋公民館前のメーミチで行われ、旧6月25日に2回、26日に1回綱を曳きます。
使われる綱は、子どもからお年寄りまで、住民総出で綱づくりをします。
県内有数の雄大な綱曳き
津嘉山の綱曳はその雄大さで沖縄県内でも有名です。
その由来は南山王(なんざんおう)時代の600年以前に始まったと伝えられ、干ばつを防ぎ、五穀豊穣を祈願するのが目的といわれています。
見事に復活した伝統的な綱曳き
兼城では昔から旧暦6月25日と翌日の26日に字を上げて綱曳きが行われます。25日の「カシチー綱」は割合あっさりしており、26日の「御願綱(うがんづな)」が華やかです。
門中(もんちゅう)に分かれての真剣勝負
組織が区域分けでなく、門中によって東西に分けられている故か、綱の競争は極めて意気盛んです。本番の綱が引かれた後には、勝ち組は一段と高潮した歌と踊りで盛り上がります。
五穀豊穣と子孫繁栄を願う十五夜の祭り
喜屋武集落に伝わる、旧暦八月の十五夜に行われる村あそびの祭りなどで演じられる祝賀の芸能で、町の無形民俗文化財にも指定されています。
舞台の開幕と閉幕に対で演じられる舞方棒
舞台の開幕一番に演じられる「左舞方」と閉幕時の「右舞方」の2種類があり、これが一対として村遊びなどで演じられてきました。
「アブシの手」が特徴的な舞方棒
近年では「アブシの手」だけが年中行事と慶祝の場や舞台で演じられています。
実践棒術を踊りにしたような舞方棒
「棍(こん)の手」と「津堅手(つけんて)」2つ型があり、実践棒術を踊りにしたような特徴ある技が見られます。