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南風原町にゆかりのある偉人をご紹介します。

中国を舞台に活躍した自由民権運動の闘士
1872年~1964年。南風原間切宮城村に生まれた「自由民権運動の闘士」新垣弓太郎。彼が活躍していた舞台は、東京、上海という郷里を遠く離れたところであるため、沖縄ではほとんど知られていません。彼は、日本に亡命中の中国の革命家で政治家としても知られる孫文(そんぶん/のちの中国革命政府総統)を助け、中国へ渡り、中国・清朝を倒すため起こっていた辛亥革命の司令官となりました。孫文はその後、革命を成功させ、中国初の共和国・中華民国の初代臨時大統領に就任しました。そして、革命で活躍した新垣の功績を讃え、孫文は新垣に「熱血可嘉(ねっけつよむすべし)」の扁額を送ったというエピソードもあります。戦後は沖縄独立論もとなえた、明治から昭和を生きた社会活動家です。

初の歯科医として活躍した第1回ブラジル移民
1893年、南風原町津嘉山生まれ。1908年、当時まだ14歳の彼は第1回ブラジル移民として遠くブラジルの地へ渡りました。一緒に移民した2歳年下の儀保蒲太(ぎぼかまた)とは無二の親友でした。山戸は歯科医の奉公人として働き、その後勉学を重ね、日本人移民の中から初の歯科医師となり、現地ブラジルで活躍しました。彼は日系人社会だけでなく、現地の住民らの歯科医療にも貢献し、たくさんの人々から敬愛される人格者でした。惜しくもブラジル移民80周年の前日、1988年6月17日に95歳でその生涯を閉じましたが、その功績は今もなお現地で語り継がれています。

幼なじみの金城 山戸とブラジルへ渡った、天才賭博師「イッパチ」
1895年~1935年。南風原村津嘉山に生まれた儀保 蒲田(通称:イッパチ)は、日系人で最初の歯科医師になった津嘉山出身の友人、金城山戸らとともに、1908年、第1回移民としてブラジル へ移住しました。イッパチというニックネームは、この移民船・笠戸丸の中でつけられたようです。山戸とイッパチは幼なじみで、山戸は医師へ、イッパチは賭博の道へ入りました。花形賭博師として活躍したイッパチは、稼いだお金を困窮している沖縄県人に分け与えました。また 日系人社会の福祉関係で篤志家としても知られています。

第1回ハワイ移民
津嘉山出身の金城亀(のちに里太郎と改名)は、首里中学校(現在の首里高校)卒で、測量士をしていたようです。
1899年12月5日に那覇港を出発、12月30日にチャイナ号で横浜港から出発した一行(26名)は、船で新年を迎え、翌年1月8日ハワイのホノルル港(オアフ島)に着きました。
1904年には、同郷の大城彦平、大城満助と再びハワイへ渡り洋裁店を経営していたといわれています。
18世紀後半、鳥のように大空を羽ばたいた人、それが南風原町津嘉山に住んでいた「飛び安里」です。世界初の動力飛行で知られるライト兄弟よりも何と100年以上も前の快挙として語り継がれ、高津嘉山には初飛翔顕彰碑も建てられています。
人物については諸説あり、安里周富(あさとしゅうふ/1748年~1799年)、安里周當(あさとしゅうとう/1765年~1823年)、安里周祥(あさとしゅうしょう/1797年~1867年)の3人が挙げられていますが、最も有力と言われているのは周當です。