町内には4基が残されており、本部、兼城にそれぞれ1基、照屋に2基が現存しています。石獅子はそれぞれの集落にとって恐れや災いをもたらす場所に向けられており、フーチゲーシのほかにヒーゲーシ(火返し)の役目も果たしていたのです。それぞれ丸みを帯びた形で、特に本部の石獅子は形態や表情にユニークさがあふれています。
本部の石獅子は、集落の北の丘陵にあり南々西の方に正面を向けています。本部には、かつて2基の村落石獅子がありましたが、1基は消失、1基が残存しています。その2基とも 東風平(こちんだ)のエージ(八重瀬)に向けられていたといわれています。八重瀬はシー(精)の高い山であるという考えがあり、また本部集落は八重瀬と向かい合う形で立地していると考えられていたため、それへのフーチゲーシ(邪気返し)の目的で石獅子が作られたと伝えられています。かつては、八重瀬がヒーザン(火山)であるという考えが南部一帯に流布していました。
照屋の石獅子1[地図B]
照屋の石獅子2[地図C]
照屋集落にある2基の石獅子は、本部集落に向けられていると言われています。本部では東風平の八重瀬へのフーチゲーシのために2基の石獅子を作ったのですが、その2基の石獅子は照屋集落に向くかたちになりました。伝承では、照屋の人々は、本部が故意に自分達の集落に石獅子を向けているものと思い込みそれに対抗するために2基の石獅子を作って本部集落に向けたといわれています。照屋 と本部の間には、水の問題をめぐってしばしば争いがあったと伝えられており、かつての両集落の関係を示唆する興味深い伝承です。
兼城の石獅子[地図D]
兼城にはかつてもう1基あったといわれていますが、現在は消失して1基だけとなっています。兼城の石獅子は、上間(うえま 現在の那覇市)へのケーシ(返し)であると伝えられています。兼城の石獅子が上間へのケーシであるといわれるのは、上間もその一帯の人々にとって、本部の石獅子が八重瀬に向いているのと同様に恐れの対象になっていたことを伺い知ることができます。